おしゃべりの楽しさという普遍性 ”自分探し”時代のリアリティ 『ぼくが生きてる、ふたつの世界』

映画スクエア

冬崎隆司の映画底なし沼 第3回『ぼくが生きてる、ふたつの世界』紹介&レビュー

おしゃべりの楽しさという普遍性 ”自分探し”時代のリアリティ 『ぼくが生きてる、ふたつの世界』
©五十嵐大/幻冬舎 ©2024「ぼくが生きてる、ふたつの世界」製作委員会
 

 『Coda コーダ あいのうた』(2021)がアカデミー作品賞を受賞したことで、きこえない、またはきこえにくい親を持つ聴者の⼦供を意味する「コーダ(CODA/Children of Deaf Adults)」という言葉を認識した人は一気に増えたことだろう。かく言う私もその1人だ。

 『ぼくが生きてる、ふたつの世界』の原作は、自らもコーダである五⼗嵐⼤さんによる「ろうの両親から⽣まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を⾏き来して考えた30のこと」。コーダの人物が主人公というだけで、日本版『Coda コーダ あいのうた』という雑な説明をしてしまいそうになるが、コメディ要素強めで、ハリウッド的な家族愛の物語としての秀作『Coda コーダ あいのうた』に対して、本作は五十嵐さんが生きてきた時代(それは呉美保の生きてきた時代とも重なる)のリアリティと、母と息子の関係などの普遍性を持った作品となっている。

 映画の中で時代は明示されていないが、五十嵐さんの年齢や映画内で言及される流行語などから、1990年代から2000年代にかけてと思われる。この年代を生きて来た人にとっては、コーダという要素を抜きにしても、あの時代の空気感を味わえる作品になっているだろう。「自分探し」という言葉にピンと来る人は、是非見るべきだ。そしてもちろんコーダに興味がある人も是非見てほしいし、親元を離れて暮らしている人にも、親に反発した経験がある人にも、是非見てほしい。そしておしゃべりが大好きな人にも(それ以外の多くの人にも見てもらいたというのは大前提として)。

 以下では、映画の深い内容にも触れながらレビューしていくので、映画をご覧いただいた上で読まれることをオススメする。

おしゃべりの楽しさという普遍性 ”自分探し”時代のリアリティ 『ぼくが生きてる、ふたつの世界』
©五十嵐大/幻冬舎 ©2024「ぼくが生きてる、ふたつの世界」製作委員会
 

!!以下は本編ご鑑賞後に読むことをオススメします!!

おしゃべりの楽しさ

 『ぼくが生きてる、ふたつの世界』には普遍的と思われる部分が多くある。親子の関係については言わずもがなで、本作で描かれる子どもを思う親の気持ち、親に対する子の気持ちは、コーダならではの部分を描きながらも、多くの人が共感できるであろういら立ちや反発、複雑な思いも描き出している。

 ここでは上記とは異なる「普遍的」と感じた点を書きたい。それは「おしゃべりの楽しさ」だ。主人公の大が上京して勤めるゴシップ雑誌の編集者たちと交わす“健常者”同士のおしゃべり、ろう者同士の手話によるおしゃべり、そしてろう者である母と大の手話によるおしゃべり。気の置けない者とのおしゃべりの楽しさは、ろう者であろうが健常者であろうが関係ないものであることを感じさせる。

 「コミュニケーション」「会話」「対話」という言葉とは微妙にニュアンスの異なる「おしゃべり」。大と母の間でおしゃべりを可能にしているのは手話だ。母・明子の両親は、手話を覚えなかった。それを責めるのも違うとは思うが、手話を覚えなかったことで、明子と両親はおしゃべりの楽しさを共有できなかったことは事実だ。

 見た人は分かると思うが、大と母・明子がおしゃべりを楽しむことができる関係であることは、本作の中で最高のシーンにつながっている。話の内容は忘れても、ある人と楽しくおしゃべりをした事実は記憶に残ったりするものだ。そこに、ろう者も“健常者”もない。

自分探しのリアリティ

 前述の通り、本作で描かれる時代は、1990年代から2000年代にかけてと思われる。若干時代が前後していたり合っていない部分もあるが(それはたいした問題ではない)、ファミコンやスーパーマリオ、ダチョウ倶楽部の「聞いてないよー」やパイレーツの「だっちゅうの」といった流行語などがそれを裏書きする。

 呉美保監督は1977年生まれで、筆者は年が同じだ。それは思春期をどっぷりと1990年代に浸かってきたということでもある。そんな1990年代の中頃から使われ出し、最近では使われる頻度が減ってきた言葉に「自分探し」というものがある。

 本作の大を見ていると、まさに「自分探し」という言葉がピッタリと来るのだ。大が社会人になる頃は、「就職氷河期」に合致すると思われる。今の若者には信じられないかもしれないが、多くの若者にとって仕事を自分が選択することが今よりも難しかった時代があった(ちなみに、当時の大人たちはリストラの恐怖におびえていた。1990年代中頃から2000年代前半の映画やドラマを見るとよくわかる)。

 採用する気のまったくないことが伝わってくる面接、運と縁でめぐり合う仕事、とりあえずやってみる仕事をこなすことで知る楽しさ。あの時代がどういうものだったかが伝わってくる。もちろん個人差はあり、自分の意志と実力で望む仕事についた人は多くいることだろう。だが、そうではない若者が多くいたあの時代の空気感が、本作にはにじみ出ている。

“コーダの青年”である前に、“1人の青年”であるということ

 ろう者を描いた『ケイコ 目を澄ませて』、吃音の少年が主人公の1人である『ぼくのお日さま』、そして本作。それぞれを見てから少し時間が経過し、それぞれの作品について思い返した時に、共通して感じた部分がある。それは、「ろう者」「吃音」という、それぞれの作品の最大の特徴とも言える部分を最初に思い浮かべないということだ。

 もちろん忘れるわけではないが、最初に思い浮かべるのは、生きるのに必死な姿だったり、強さだったり、優しさだったりする。映画の魅力の1つは、自分とは違う人生を垣間見ることにある。『ケイコ 目を澄ませて』も『ぼくのお日さま』も本作も、ろう者や吃音の少年やコーダの青年を描きながら、それだけではない部分も持った、それぞれの人間を描いている。そんな映画はいつも素晴らしい。


おしゃべりの楽しさという普遍性 ”自分探し”時代のリアリティ 『ぼくが生きてる、ふたつの世界』

冬崎隆司(ふゆさきたかし)
映画ライター、レビュアー、コラムニスト
1977年生まれ。理屈に囚われすぎず、感情に溺れすぎず。映画の多様な捉え方の1つを提示できればと思っています。
映画レビュアーの茶一郎さんとのポッドキャスト「映画世代断絶」も不定期更新中。


【作品情報】
ぼくが生きてる、ふたつの世界
2024年9月20日(金) 新宿ピカデリー、シネスイッチ銀座ほか全国順次ロードショー
配給:ギャガ
©五十嵐大/幻冬舎 ©2024「ぼくが生きてる、ふたつの世界」製作委員会

作品一覧